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言語という「芸」の先にあるもの|篠田尚子ブログ|モニクル総研

作成者: 篠田 尚子|2026.04.21

これまであまり表立ってお話ししてこなかったのですが、私は小学校から高校卒業までをアメリカで過ごした帰国子女です。数年前からPIVOTや楽待チャンネルなどで英語のインタビュアーを担当する機会が増え、それに伴って質問をいただくことも多くなりました。


アメリカにいた頃は「日本人なのだから日本語ができて当然」、日本に帰ってきてからは「帰国子女なのだから英語ができて当然」という環境で長く過ごしてきました。

そのせいか、言語という観点では、どちらが得意という感覚もあまりありません。両方を同じレベルで維持することが、いつの間にかライフワークになっていました。

振り返ってみると、ファンドアナリストとしてここまで仕事を続けてこられた背景には、英語ができたことの影響は少なからずあったと思います。海外のファンドマネジャーや当局と直接やり取りができたり、まだ今ほど翻訳ツールが発達していなかった頃に一次情報に触れられたり。若い頃から海外出張に行く機会に多く恵まれたのも、その延長線上にあります。

ただ、自分の中では、英語を「武器」として意識したことはあまりありません。どちらかというと、「できて当たり前のもの」という感覚に近く、わざわざ外に向けて発信する機会もなかったというのが正直なところ。少し変な言い方かもしれませんが、「武器」というよりは、身体に染みついた「芸」のようなものです。

そんな私は、語学が言葉だけの話ではないということを、年齢を重ねるごとに実感しています。海外で学ぶということは、その国の歴史や文化、ものの考え方まで含めて、まるごと理解していくということです。例えば、足元のアメリカと中東をめぐる動きにしても、小中高とアメリカでどっぷりと歴史教育を受けた私の捉え方は、一般的な日本人の感覚とは少しずれているのだろうと思うことが少なくありません。

若いうちから海外で……と考える親御さんも多いとは思います。もちろん、とても価値のある選択肢です。ただ、海外で教育を受けるということは、子どもが親とまったく同じ感覚では育たない、ということでもあります。

歴史の見方も、文化に対する理解も、何を当たり前と思うかも、少しずつ変わっていく。それを寂しいと感じるのか、頼もしいと感じるのか。海外で学ぶというのは、語学以上に、「自分にとって何がスタンダードか」を少しずつ入れ替えていくことなのかもしれません。

少なくとも、海外で育った側の人間としては、そう思います。

私自身、少しずれた感覚も、英語という「芸」も、いまさら手放せそうにありません。面倒なようでいて、たぶん、どちらも私そのものなのだと思います。