チームモニクルのステージ発表と展示から約2カ月半が経過した10月13日、184日間にわたって開催された大阪・関西万博2025が閉会した。実は閉会直前の週末、プライベートで東京から母を連れて再び足を運んだ。
1970年当時、東海地方に住んでいた母は、大阪万博を家族で訪れている。何時間も並び、アメリカ館の目玉展示であった「月の石」にも触れたという。ただ、本人いわく「とにかく並んだことしか覚えていない」。展示よりも長蛇の列の印象が強かったようだ。
だからこそ、今回は「雰囲気を味わいたい」という希望だけを胸にしていた。特定の海外パビリオンを巡るのではなく、大屋根リングの下を歩き、来場者の熱気や風の流れを感じたいというのが母の希望であった。
会期最終盤ということもあり、会場は7月とは比較にならないほど混雑していた。とはいえ、最高気温が10度以上低くなっていたため、必要以上に体力を奪われることはなく、総じて快適に過ごすことができた。
大屋根リングにものぼることができたし、複数の国や地域が共同で出展するコモンズ館をはじめ、幾つかのパビリオンを回ることもできた。もちろん、会場内に計3体いたミャクミャク像の写真も撮った。
そんな中で、母が語った一言が印象的だった。
「太陽の塔もね、最初は『何これ』って言われてたのよ。今回のミャクミャクみたいに。」
当時、岡本太郎の作品は難解で異様だと評され、決して万人から人気があったわけではなかったという。それが会期終盤になるにつれて注目を集め、閉幕後には再評価され、万博の象徴として語り継がれるようになった。今回のミャクミャクと同様、評価に時間差があったという意外な共通点は実に興味深い。
2カ月半ぶりに訪れた会場では、ミャクミャク人気の高まりとともに大阪市役所から移設された「寝そべりミャクミャク」が西ゲート付近に登場していた。
関西を拠点とするシンクタンク、アジア太平洋研究所(1)の分析によれば、今回の万博による全国の経済波及効果は約2兆円に達する見込みだ。宿泊・交通・飲食など、大阪を中心とした地場産業が大きな恩恵を受けた。しかし、実際に歩いて感じたのは、数字には表れない「人の力」だった。滞在していたホテルのフロント、商業施設のスタッフ、タクシーの運転手・・・どこでも「来てくれてありがとう」という空気があった。それは単なる接客を超え、地域が一つの受け皿として機能しているような感覚だった。
この「人のつながり」こそ、経済効果のもう一つの側面だと思う。地域を動かすのは直接的な補助金や投資額だけではなく、人が交わり、信頼が育まれることにある。その積み重ねが、これからの地域経済を支える「見えない資本」になるのだろう。
1970年の大阪万博がきっかけとなり、明治ブルガリアヨーグルトが誕生したのは有名な話だ(2)。当時の日本では甘いデザート風ヨーグルトが主流だったが、「ブルガリア館」で紹介された「酸味のあるプレーンヨーグルト」に出会った明治の社員が、その味に衝撃を受けたという。当時の出会いを機に商品開発が進められ、1973年に「明治プレーンヨーグルト」として商品化された。
当初は独特の酸味がなかなか受け入れられなかったようだが、次第に家庭の定番となり、今では健康意識の象徴のような存在になっている。
半世紀前の万博が、私たちの日常を変える「未来の種」を蒔いた。その象徴的なエピソードだと思う。そして今回の万博も、同じように次の時代へとつながる新しい文化の芽を生み出しているのかもしれない。
投資という行為も、本質的にはそれと同じだ。すぐに成果が出ない取り組みでも、未来を信じて資源を投じる。その積み重ねが、やがて誰かの暮らしを形づくり、地域や社会の姿を変えていくのだ。
コモンズ館を中心にコーヒーの紹介は多かったが、
モザンビーク館のキッチンカーで買ったアイスコーヒーは疲れが一気に吹き飛ぶ美味しさだった
1970年の万博がそうだったように、2025年の万博も「終わり」から新しい循環が始まる。
未来を動かすのは、巨大なプロジェクトでも一過性のブームでもない。そこに集い、関わった人たちの信頼と行動 ー その地道な蓄積が、次の経済を、そして地域を育てていく。ミャクミャクがやがて誰かの記憶を刺激するように、この半年間の熱量が、次の「共創経済」の芽を育てていくことを願っている。